早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
西山弥太郎は明治二十六年(1893 年)に生まれ,昭和四十一年(1966 年)会長在任中に73 歳で死去した.川崎造船所,川崎重工製鈑工場(神戸市)の工場長などを歴任した.空襲で木造の事務所棟などが焼失したさい製鉄所長の西山は「鉄屋が鉄をつくるのに事務所なんか要るか!現場の隅に机ひとつもあれば十分だ.工場の機械類はひとつもやられていない.人と電気系統と燃料さえあれば今すぐにでも操業できる」と従業員を鼓舞した.
昭和二十五年(1950 年),鉄鋼部門を分離独立し川崎製鉄(現JFE スチール)を設立し初代社長に就任した.資本金5億円の会社が163 億円もの巨費を投じて戦後初の臨海製鉄所を千葉市に建設する計画に対して,当時日銀の一万田尚登総裁からは「建設を強行するなら製鉄所の敷地にぺんぺん草が生えることになる」と反対した.その後多くの苦難を経て昭和二十八年(1953年)に西山の「思い」が実り千葉製鉄所の1号高炉に火入れに至った.この英断が多くの企業による果敢な設備投資を促し、高度経済成長を推進する起濢になった.
日向方齊は明治三十九年(1906 年)に生誕し,平成五年(1993年)86 歳で死去した.住友金属工業は、住友伸銅場・住友鋳鋼場からスタートし,軍需ブームに乗り終戦直前には19 工場,従業員8 万5 千人を擁する大企業となった.終戦後は一転し,大阪・尼崎など4 工場に集約し1 万5 千人の従業員と15 工場を切り捨てるという大手術に企画課長とし携わった.昭和二十八年(1952 年)に小倉製鋼を合併し,住金は高炉メーカーへと脱皮を図った.昭和三十二年(1956 年)に和歌山製鉄所に高炉を設けて銑鋼一貫体制化を図り,後発メーカーながらも世界有数の高炉製鉄会社に育て挙げた.昭和四十年(1965 年)通産省は産業政策の一環として一律の粗鋼減産を指示した.日向社長はこれでは過去の市場占有率ベースで固定され,住金は実質的に不利になるとして猛反対した.世間はお上に楯突く「住金事件」として注目した.通産省は原料炭輸入の外貨割り当て削減などで報復したが,財界のみならず世間一般からも日向の反骨魂に対し拍手,その後自由競争への日向の「思い」が実り, 昭和四十三年(1968 年)新鋭の鹿島製鉄所を建設に着手することができた.同年,私は入社式で挨拶された日向社長の一言,「初めての給料の一部は,今まで育てて頂いたご両親に感謝を込めてお渡ししましょう」は今でも忘れられない.