早稲田大学 名誉教授 浅川基男 asakawa@waseda.jp
怒りなさい。叱りなさい。どやしつけなさい。言い方に気を配るなどさらさら必要ありません。あなたの言葉でダメなものはダメだと言いなさい。なぜ叱ると身に付くか。それは誰も辛いからである。辛いものは心身にこたえるし、よく効くのだ。人が人を叱るのに空気を読む必要などさらさらない。」と伊集院 静氏(大人の流儀)は語っている。人が相手であると、人権や個性が立ちはだかり、なかなか叱りにくい。例えば子犬の仕付けに置き換えてみたらどうだろう。犬の個性を尊重しやりたいように任せたら、犬は自分が主人だと思ってしまい、要求が通るまで飼い主に吠え続け、どうしようもないわがままな犬になるだろう。人と犬とは「社会性を躾る」点においてどこに差があるだろうか。
会社でも新人を一刻も早く一人前に育て、仕事をこなしてもらい、本人の成長も期待したい。企業の若手研修会に招かれ「上司・先輩から鍛えられているか?叱られているか?」と問うとほとんどの新人が首をかしげる。中堅のエンジニアに「部下を叱っているか?」と問うと「叱る自信がない。自分のことで忙しい。訴えられそう。心の病が心配」と消極的である。特に部下が心身異常を来し、自分や会社に跳ね返ることを極度に恐れている。私が学生を叱るのは「このままで社会に出たら本人は潰れる」と感じたときだ。その際は自動的に「叱る弁」が開く。多くは「基礎学力の欠如」と「非常識」に集約される。叱る際には空気を読むことも忘れて心から叱っている自分を発見する。ただし、心の病が起きそうな学生には怒られ上手な学生に怒りの 矛先を向け、暗に本人に反省を促すようにしている。また、本人の先輩を叱ることも効果的だ。久しぶりに卒業生と会うと「あのときはこんなことを言われてショックでした」と言われることがあるが、自分は全く覚えていない。本人が立派に成長したので、忘れるのも致し方ないと自分なりに言い訳している。